終戦の日に英霊になったつもりで「靖国」を考える

今日は終戦記念日だが、一月前は東京都議選自民党が惨敗を喫して石原慎太郎を青ざめさせていたころである。
あまりの負けように、総選挙を前にして自民党は内部崩壊の様相を呈すことになり、それが今に続いている。
このままでは自民党が党勢を盛り返すのはとうてい難しく、民主党にケンカを売るようなCMを作り、ネガティブキャンペーンとしか思えないような広告戦略をとり続ける限り、有権者はますます拒絶反応を起こして自民党から離れていくのではないかと思わせる。

そこで思い出すのは、7月13日づけの産経新聞政治部長の署名付きで出した「なぜ自民は惨敗したのか」という記事である。
このなかで政治部長乾正人は、郵政選挙で空前の勝利を収めてからわずか4年の間に、なぜかくも自民党は凋落してしまったのかと論じている。
そして「異説ではあるが」と断りながらも、産経新聞としては安倍晋三福田康夫麻生太郎の3代にわたる首相が靖国神社参拝に踏み切れなかったことが、もっとも大きな理由ではないかと書いて、私をぶったまげさせた。

 小泉氏は、総裁選出馬時の公約を守って中国や韓国が強く反発するのを承知の上で、在任中、靖国参拝を続けた。むろん、国民の中にも反対派は少なからず存在したが、内政的には「ぶれない指導者」を強く印象づけ、高支持率の基盤をつくった。

 続く安倍氏は「美しい国」づくりを掲げ、首相就任前は、熱心に靖国神社を参拝していた。だが、在任時には「政冷経熱」といわれた日中関係の改善を図ろうと参拝を自粛してしまった。「保守政治家」を自任する麻生首相も参拝する気配はない。

 その結果はどうだっただろうか。確かに日中首脳間の対話は頻繁に行われているが、東シナ海のガス田問題も毒ギョーザ事件も解決していない。それどころか中国は、軍備増強のスピードをさらにあげている。このため自民党支持者の一部は、「他国に遠慮して戦没者の慰霊もできない指導者」と麻生首相らを見放している。

こう書き綴ったうえで、乾は、「精神的な背骨を失っていると古くからの支持者が判断しているため」に自民党は選挙で負け続けているのではないかと結論づけている。

新聞社の中でももっとも右よりの主観を持つ産経新聞とは承知しながら、それでもこの政治部長乾正人の言い分はあまりの暴論と私は思う。
乾の言い分を裏返せば、もし安倍晋三以降の3人の首相が靖国神社参拝をしていれば、自民党有権者から見放されることなく、選挙でも連戦連勝できたはず、ということになる。

中国などの隣国の神経を逆なでする行為を臆することなく実行することが精神的な背骨を示すことで、つまりは毅然とした強い国家としての日本を内外に示すことが政権維持には欠かせないということになる。

ご冗談でしょう、と言いたくなるのだが、産経新聞はいたって本気のようである。
ちょうど一月後の8月13日づけの記事では、右派論壇のヒロインともいえる櫻井よしこを担ぎ出し、「麻生首相にもの申す 名誉挽回に死力尽くせ」という署名記事を載せている。

ここで櫻井は、今の自民・民主両党のあり方を見て、「日本における政治の矜持(きょうじ)の喪失と保守勢力の凋落(ちょうらく)を痛感させる。日本はいま、歴史を重ねて蓄えてきたすべての力を使い切ろうとしているかのようだ」と小言を垂れている。戦前の日本を賛美し、復古主義ともいえる極右思想の持ち主らしく、櫻井は麻生太郎鳩山由紀夫もあまりにふがいなく、先人の残した諸々の価値観が消し去られてしまいそうだと嘆いている。

そして、ここでも櫻井がもっとも象徴的なものとして挙げているのが、やはり「靖国参拝」なのである。

日本の首相が「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのに、外国政府に言われてとりやめるという異常からの脱出が正常化への第一歩だと気づき、熱い心をもって全力で臨まなければならない。そのこともなしに参拝を避けるとしたら、それは、無気力の極みである。異常を是として、異常を継続することにほかならない。

 吉田茂以来、不幸にも戦後日本に根を張った政治風土の最も深刻な欠陥は、この種の、異常を正常と思い込む価値観の倒錯である。総選挙を前に国民に訴えるべきは、返済不要の奨学金や農家への戸別補償の効用ではなく、靖国参拝に象徴される日本人の心の問題である。

次期政権をうかがう二大政党の党首がいずれも、国家のために努力し、戦い、敗北し、命を落とした人々の魂を、慰め、鎮め、感謝の祈りを捧げることを、他国に気兼ねして行わないと表明したことに、私は深い喪失感を抱く。日本はここまで大事な価値観を失ってしまったのか。精神の支柱を腐らせたかのようなこんな国がほかにあるだろうか。

首相が「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのに、中国や韓国などから批判されることを気兼ねして、それを行わないというのは異常であり、戦後の日本はこの異常を正常としてきたために無気力な様をさらけ出してしまった。


果たしてそうなのだろうか。
もし、私が先の大戦で命を落とした「英霊」だったら、どう思うだろう。
「英霊」の私は、日本の遙か南方で見方の援軍もなく孤立し、餓死寸前まで飢えているというのに、目の前には圧倒的な兵力を持ったアメリカ軍が迫っている。もう絶望的な状況で、私が死ぬことはほぼ間違いない。
そしてアメリカ軍の容赦ない火炎放射器が紅蓮の炎を放ち始めたとき、私は思う。
もちろん「天皇陛下万歳」などではない。
もう一度、白い飯を食いたかった。家族に会いたかった。と、まず思うだろう。
そして私にまだ考える時間とゆとりがあれば、こう思うに違いない。

戦争の名の下にこんなところに送り出し、人間らしい扱いもせずに自分を死に追いやろうとしている帝国陸軍大日本帝国のお偉方をすべて呪ってやる。
よくも非道なことをしてくれたな。

そして私は、その一瞬後、猛烈な勢いの炎に飲まれ悲鳴を上げることもできずに黒焦げとなり「英霊」と化していったのだ。

英霊となった私は、遺骨も拾われぬまま、「国家のために尊い命を捧げた人たち」として靖国神社に祀られたが、なぜかそこには私たち末端の兵隊たちが蛇蝎のごとく嫌っていた東条英機らのA級「クソ野郎」戦犯も一緒に祀られている。
私は、いわばこいつらクソ野郎に殺されたようなものだ。
なぜ、こんな奴らと一緒に祀られなければならないのか。
そして、英霊を慰めるためにと称して、国会議員らが8月15日になると思い出したように参拝しにくるが、こいつらはかつて私たちを戦地に送り出した憎むべき帝国政府の末裔たちではないか。安倍も麻生も参拝には来なかったが、奴らの二代前の政治家は、無謀な戦争遂行に荷担した戦争犯罪人だ。

そんな奴らに参拝されて、どうして「英霊」の魂が慰められるというのか。

私たち「英霊」のなかには、中国や朝鮮から強制的に日本軍のために働かされて命を落とした者もふくまれている。
彼らも血の涙を流して怒っている。
靖国は、言ってしまえば味噌も糞も一緒くたにして放り込み、目に見える部分だけ立派に飾って見せた食わせ者の神社なのだ。

靖国に祀られているクソ野郎どもを参拝することが、どうして国家の精神的な背骨になるというのだ。
私は死んで「英霊」となっても怒っている。

戦争を起こし、何万という人々を無駄死にさせ、国を灰燼に帰するまで破壊した犯罪人が祀られている神社を首相が参拝しないことが異常であり、その異常が正常として続いているなどとは、多くの「英霊」から見れば失笑を買うことだろう。

自民党は歴代総理が靖国参拝をしなかったから崩壊しようとしているのではない。
靖国参拝が国としての毅然とした姿勢を示すことだと勘違いしている極右の婆さんの繰り言に、耳を貸す「英霊」はいないだろう。

私が見る靖国とは、日本が犯した戦争という犯罪の責任を曖昧模糊としたものとして存続させている異常なものに他ならない。

【追記】
今日8月15日、小泉純一郎安倍晋三靖国神社を参拝した。小泉は首相在任中の06年から連続4回、安倍は昨年に続いて2回目となる。
また現職閣僚として野田聖子も参拝。鳩山邦夫総務相も参拝し、記者団に首相が参拝しないことを批判した。