検察のクーデター?

小沢一郎の周辺が、にわかに慌ただしい動きを見せてきた。
東京地検特捜部は、15日夜、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で小沢一郎の元私設秘書で陸山会の会計事務担当だった民主党石川知裕衆議院議員と、後任の会計事務担当だった小沢一郎の元私設秘書、池田光智を逮捕。
さらに西松建設の違法献金事件で逮捕、起訴されていた元会計責任者の大久保隆規も逮捕した。

16日は民主党にとって与党になってはじめての党大会が行われる予定になっていたこと、さらに18日からは通常国会が始まることを考えれば、今回の地検特捜部の行動は露骨な<民主党潰し>と見てもよさそうだ。

私は小沢一郎という政治家が好きではないし、自民党的体質でもある政治とカネの問題にはうんざりしていることもすでに書いたとおりだ。
だから、今後もし検察の手が小沢本人まで伸びたとしても、それはそれで構わないと思っている。そうすることで今の民主党政権にも漂っている薄汚れた空気がすっきりと晴れるのならば、望むところである。

しかし、そのことと検察という権力が己の威信を示すために暴走しているのを黙って見逃すのとはまったく別の問題だ。

検察はこれまで小沢本人に事情聴取しようとしていたが、小沢が承知しなかった。そこで検察は本丸を責めるために外堀を埋めていくように小沢の側近に狙いをつけて縄をかけていった。
すなわち、たとえ小沢本人が不承知であろうと検察からは逃れることは出来ない。民主党が小沢の首を黙って差し出していれば、今回のようないかにも強引な逮捕劇はなかっただろうと検察は言いたいのだ。これは、お上にたてつく者はたとえ政権与党であろうとも容赦しないということであり、場合によっては現政権が大打撃を受け、民主党が分裂するなり、連立政権が瓦解することがあっても構わないという意思表示でもある。
つまるところ、これは民主政治に対する傲慢な挑戦なのだ。
そして民主政治に対する挑戦をしてきたということは、検察がケンカを売ろうとしているのは民主党だけではなく、国民に対してでもあるということを忘れてはいけない。

われわれは自民党独裁による政治が50年以上も続いたことで腐りきってしまったことに嫌気がさし、先の総選挙でNOを突きつけた。
政権交代を実現させたのは国民であり、民主主義が独裁に勝利したことに他ならない。

だが、顔の見えない検察という権力は、いっさいの民主的な手続きを踏まず、無言のまま新しい政権にダメージを与えて民主党と民主主義を支持する国民に対して圧力をかけてきたのだ。

私は陰謀論は好まないが、昨日夜からはじまった検察特捜部の行動は、民主党による政府を望まない勢力とどこかで結びついたクーデターの始まりなのではないかと勘ぐりたくなる。

はたして検察は、小沢一郎の首を取れば気がおさまるのだろうか。
小沢を失ったとしたら、民主党はどうなるのか。
民主党ががたつくことによって、結束が固いとは言い難い連立政権はどうなるのか。
もしこの陰謀を企んだ人間がいるとしたら、今頃ワクワクしながらことの成り行きを見守っていることだろう。

われわれとしては、たとえ民主党が大ダメージを受けたとしても、自分たちの意志で選んだこの政権が不当な形で発言力を失い、国を舵とる機能を奪われることがないように注視していかなければならないと思う。

いっそ小沢一郎は逮捕されればいいと思う

昨年来、西松建設による違法献金問題をはじめ、小沢一郎をめぐるカネの問題がくすぶりつづけている。
今日の毎日新聞の報道では、小沢一郎資金管理団体陸山会」の会計処理をめぐる問題が取り上げられ、小沢の手持ち資金が陸山会との間を行き来していたことを裏づける「先生に4億円を返す」というメモが押収されていたことが報じられている。
検察からすれば、西松建設の違法献金とあわせ、小沢が政治資金規正法にも違反していることを明らかにして、小沢一郎という政治家が抱えているカネの問題を一挙にあぶりだそうという意図があるのだろう。

連日のように報道されるこの問題について、小沢一郎本人はもちろんのこと、民主党も何ら誠意ある回答を国民に対して行っていない。

はっきり言って、私はもううんざりしている。

政治家とカネの問題は、かつて自民党独裁時代に嫌というほど見せつけられてきたものではなかったではないか。政治はカネということをもっともあからさまに見せたのは田中角栄だったが、それに続く自民党の政治家たちは大物・小物もふくめてありとあらゆる場面でカネの問題を国民の前にさらけ出し、罰せられるどころか政治は金がかかるものだということを当然のことのように公言し、利権まみれの政治家家業を続けてきたのである。

今、マスコミが騒いでいる小沢一郎とカネの問題も、同じではないか。
政権交代をして自民党民主党になっただけで、政治とカネの問題は結局何も変わっていない。
民主党政権を支持してきたブログは、すなわち小沢マンセーブログと化していて、小沢が検察に追求されているのは国策捜査だなどと騒いでいるようだが、いったいどこを見ているのだろう。

小沢一郎という政治家は田中角栄いらいの自民党的体質をもっとも体に染みこませてきた政治家ではないか。
私は、小沢一郎などははやいところ検挙されてしまえばいいと思っている。
そして小沢という闇将軍を失った民主党が、少しでも政治とカネの問題をクリーンなものにして国民の前にあますところなく開陳するようになればいいと思う。

小沢がいなくなれば自民党が喜ぶとか、今夏の参院選で勝てなくなるかもしれないなどと言うかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
私はとにかく政治がカネにまみれたものであるという旧来の考え方に終止符を打ってもらいたいのだ。
それをせずして、いくら政治家主導だとか開かれた政治だとか言っても単なるパフォーマンスにすぎず、自己批判もなくパフォーマンスを続けてきた民主党の有り様は、政権交代いらい、われわれを苛々させ続けてきたものでしかないのである。

今の民主党から小沢一郎がいなくなったら、民主党はどうなるか。求心力を失ってバラバラになるのではないか。

そんなこと知るか。
私は民主党をそれほど支持しているわけではないし、次の参院選だって、民主党に独り勝ちしてほしいだなんて、これぽっちも思っていない。
民主党が負けても自民党が勝つわけもなし、力を伸ばすのが社民党でも国民新党でも、あるいは共産党でもいいじゃないか。
求心力を失った民主党が空中分解して右派と左派に別れ、右派はみんなの党とくっついてもいい。
そのときはそのときで、新自由主義みんなの党を、それこそみんなの力で叩いていくだけの話だ。

これからの政治には、小沢一郎なんかいらない。

誰もはっきりとは言わないけれど、ほんとは心の中でそう思っている人は少なくないのではなかろうか。

あらためて思う。電車内でパソコン使うってどうよ?

ネットブックが大いに売れているからか、それとも無線LANで場所を選ばずにネットが使えるようになったからか、近頃、電車の中でパソコンを使っている姿を見かけることが多くなった。
はじめのうち、彼らを目にしても「仕事に追われるビジネスマン」なのだろうくらいに思っていた。

仕事熱心なことで。ご苦労様。

しかし私だったら電車内でパソコンを開くのは何だか気恥ずかしいし、何も電車に乗ってまでも仕事しなくてもいいではないかと思うのでパソコンを開こうとは思わない。
どうしても時間に追われて原稿を書かなければならないときは、ゲーム機のような小さな端末を持って入力することにしている。そして、操作をするときにはできるだけ両肘を腹につけ、腕が隣の人に触れないように注意する。お互い、不快な思いをするのは嫌だからだ。

電車内でパソコンを開くのが気恥ずかしいことについては、人それぞれだろう。
今や電車内では携帯を見るのは当たり前だし、ゲーム機に熱中するのを見ることだって珍しくない。
パソコンもそれらの延長線上にあるものだと考えれば、別段、特別なことではないのかもしれない。

ただ、私は新聞でさえ、混み合った車内で広げるのは周囲にとって迷惑だと考えるし、小さく折りたたんでまで読みたいと思わないから車内に新聞を持ち込むことはまずない。満員電車の中でもこれみよがしに新聞をひろげ、わざわざ折り返して読んでいるオヤジは昔からいるが、私には到底マネできない無遠慮な行為である。
そういう心性から見ると、携帯やゲームはまだしも、パソコンを使うのは如何なものかと思っていた。

だいいち、パソコンは携帯やゲーム機と違って、操作をするにはどうしたって両肘を脇につけて操作をする必要がある。
つまり、腕2本分、座席のスペースを多く要するわけで、ただでさえ体をくっつけて着座しなければならない電車のベンチでパソコンを操作すれば、それはきっと隣に座った人にとっては迷惑なことになると思うのだ。

そして昨日、私は実際にその迷惑を体験するはめになった。
私は仕事の約束のため、都心に出なければならなかった。
地方に住んでいる私が都心に出るには電車を乗り継いで1時間半ほどかかる。
最初に乗るローカル線は、いつも空いているので問題なく座れる。
しかし、終点まで行って東京方面に向かう快速電車に乗るときは、時間帯に関わりなく混み合って座れることは少ない。
できることなら座って行きたいと思っていた私だが、その電車に乗り込むとちょうど一人分、端から2番目の席が空いているのが目に入った。
私はためらうことなくその席に腰を下ろした。

ところが、その席の隣に座っていた男がパソコンを開いていたのだ。

男は、わりと恰幅のいい体で、おそらく30代前半。
年の割には髪をオールバックにしてポマードの臭いをさせていた。
格好はスーツ姿ではなく、黒っぽいポロシャツに同系色のジーンズ。
サラリーマンではないようだったが、膝の上にB5サイズのノートパソコンを広げ、一心にキーボードを打っている。
見るとはなしに画面を見ると、なにやら表やグラフがあって、男はしきりに画面を切り替えながら表に入力をしているようだった。

IT関係なのかな。
それとも株か何かをやっているのか?

まあ、それはいい。関係のないことだ。

ところがこの男、ガタイがいいうえにそれほど小さくもないパソコンを操作しているので、右ヒジが私の脇腹に密着して、しかもグリグリ動くからかなわない。

ああ、この席だけが空いてたのは、こいつがパソコンをやってるからだったのか。
そう気がついたときには電車が動き出していた。
そして電車が走ろうが止まろうが、男は手を休めずにパソコンを操作し、同時に私の脇腹をグリグリする。
ここでガマンできなければ席を立つか、男に一声かけるかのどちらかだろう。
私は座っていたかったので、後者を選んだ。

「さっきからヒジが当たって迷惑なんだけど」

すると男は言った。
「しょうがないでしょう。だいたい、座るのが無理だったんじゃないですか」
「私は空いている席に座っただけだよ。だいたい、こんなところで仕事をするのならグリーン車にでも乗ればいいだろう」

男は明らかにムッとして言った。
「何言ってんだよ。後から座ってきたくせに」
「後から座ろうと勝手だろう」
「ケンカ売ってんのか、この野郎」

私はどうすべきか。
頭に浮かんだのは、黙って席を立ち、男の鼻めがけて一発ぶちこんでやること。突然、鼻を殴られるとダメージは大きいはずだ。

しかし、私はこの後に仕事を控えていた。
無用なケンカで心を乱されるのは避けたかった。
もちろん、相手の方がガタイがいいし、年も若い。「ケンカ売ってんのか、この野郎」といった時点で、こいつもいざとなったらかなりやり返してくるだろう。

そうなったときに車内はどうなるか。
さらに、もし私が反撃を食らって眼鏡を壊されたり、歯を折ったり、あるいは顔を腫らしてしまったら、仕事はどうなるか。

それやこれやを考えて、私は黙った。
黙って、座り続けた。
できるだけ平然として、体を男に押しつけたまま。

男は、剣呑な言葉も忘れたかのように、再びパソコンに取り組んでいる。
その右肘は相変わらず、私の脇腹に押しつけられたままだ。

そうして20分ほど。
乗換の駅に電車が着いたので私は降りた。何事もなかったかのように。

その後、男がどこまで電車に乗り続けたのか、知りようもない。
しかし、男は降りるまでパソコンを操作していただろう。
そして、満員とまでは言わないまでも、たくさんの人が立っている車内の中で、男の隣の席は空いたままだったのではないかと思う。

とんだクソ野郎に出くわしたものだと思う。
できれば売られたケンカを買ってやりたかった。メタボ親父の私は負けたかもしれないが。

しかし、この経験から間違いなく得た教訓はこうだ。
「電車の中(普通車両の中で)パソコン操作をするのははた迷惑でしかない」。
もしどうしてもパソコンを操作する必要があるならば、迷惑にならないように細心の注意を払うべきだ。そして、少しは周囲に対して申し訳ないと思いながら「仕事」をするべきだと思う。

今日も電車の中でパソコンを開いて一心に操作をしている人間がいることだろう。
その手の人間が、すべて昨日私が出会ったようなクソ野郎だとは限らない。

けれども、電車の中は仕事場じゃない。
迷惑なことはしちゃいけない。
私は今後、車内で迷惑を顧みずパソコンを操作している男を見かけたら、そいつのことを「クソ野郎」と思うことに決めた。

終戦の日に英霊になったつもりで「靖国」を考える

今日は終戦記念日だが、一月前は東京都議選自民党が惨敗を喫して石原慎太郎を青ざめさせていたころである。
あまりの負けように、総選挙を前にして自民党は内部崩壊の様相を呈すことになり、それが今に続いている。
このままでは自民党が党勢を盛り返すのはとうてい難しく、民主党にケンカを売るようなCMを作り、ネガティブキャンペーンとしか思えないような広告戦略をとり続ける限り、有権者はますます拒絶反応を起こして自民党から離れていくのではないかと思わせる。

そこで思い出すのは、7月13日づけの産経新聞政治部長の署名付きで出した「なぜ自民は惨敗したのか」という記事である。
このなかで政治部長乾正人は、郵政選挙で空前の勝利を収めてからわずか4年の間に、なぜかくも自民党は凋落してしまったのかと論じている。
そして「異説ではあるが」と断りながらも、産経新聞としては安倍晋三福田康夫麻生太郎の3代にわたる首相が靖国神社参拝に踏み切れなかったことが、もっとも大きな理由ではないかと書いて、私をぶったまげさせた。

 小泉氏は、総裁選出馬時の公約を守って中国や韓国が強く反発するのを承知の上で、在任中、靖国参拝を続けた。むろん、国民の中にも反対派は少なからず存在したが、内政的には「ぶれない指導者」を強く印象づけ、高支持率の基盤をつくった。

 続く安倍氏は「美しい国」づくりを掲げ、首相就任前は、熱心に靖国神社を参拝していた。だが、在任時には「政冷経熱」といわれた日中関係の改善を図ろうと参拝を自粛してしまった。「保守政治家」を自任する麻生首相も参拝する気配はない。

 その結果はどうだっただろうか。確かに日中首脳間の対話は頻繁に行われているが、東シナ海のガス田問題も毒ギョーザ事件も解決していない。それどころか中国は、軍備増強のスピードをさらにあげている。このため自民党支持者の一部は、「他国に遠慮して戦没者の慰霊もできない指導者」と麻生首相らを見放している。

こう書き綴ったうえで、乾は、「精神的な背骨を失っていると古くからの支持者が判断しているため」に自民党は選挙で負け続けているのではないかと結論づけている。

新聞社の中でももっとも右よりの主観を持つ産経新聞とは承知しながら、それでもこの政治部長乾正人の言い分はあまりの暴論と私は思う。
乾の言い分を裏返せば、もし安倍晋三以降の3人の首相が靖国神社参拝をしていれば、自民党有権者から見放されることなく、選挙でも連戦連勝できたはず、ということになる。

中国などの隣国の神経を逆なでする行為を臆することなく実行することが精神的な背骨を示すことで、つまりは毅然とした強い国家としての日本を内外に示すことが政権維持には欠かせないということになる。

ご冗談でしょう、と言いたくなるのだが、産経新聞はいたって本気のようである。
ちょうど一月後の8月13日づけの記事では、右派論壇のヒロインともいえる櫻井よしこを担ぎ出し、「麻生首相にもの申す 名誉挽回に死力尽くせ」という署名記事を載せている。

ここで櫻井は、今の自民・民主両党のあり方を見て、「日本における政治の矜持(きょうじ)の喪失と保守勢力の凋落(ちょうらく)を痛感させる。日本はいま、歴史を重ねて蓄えてきたすべての力を使い切ろうとしているかのようだ」と小言を垂れている。戦前の日本を賛美し、復古主義ともいえる極右思想の持ち主らしく、櫻井は麻生太郎鳩山由紀夫もあまりにふがいなく、先人の残した諸々の価値観が消し去られてしまいそうだと嘆いている。

そして、ここでも櫻井がもっとも象徴的なものとして挙げているのが、やはり「靖国参拝」なのである。

日本の首相が「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのに、外国政府に言われてとりやめるという異常からの脱出が正常化への第一歩だと気づき、熱い心をもって全力で臨まなければならない。そのこともなしに参拝を避けるとしたら、それは、無気力の極みである。異常を是として、異常を継続することにほかならない。

 吉田茂以来、不幸にも戦後日本に根を張った政治風土の最も深刻な欠陥は、この種の、異常を正常と思い込む価値観の倒錯である。総選挙を前に国民に訴えるべきは、返済不要の奨学金や農家への戸別補償の効用ではなく、靖国参拝に象徴される日本人の心の問題である。

次期政権をうかがう二大政党の党首がいずれも、国家のために努力し、戦い、敗北し、命を落とした人々の魂を、慰め、鎮め、感謝の祈りを捧げることを、他国に気兼ねして行わないと表明したことに、私は深い喪失感を抱く。日本はここまで大事な価値観を失ってしまったのか。精神の支柱を腐らせたかのようなこんな国がほかにあるだろうか。

首相が「国家のために尊い命を捧げた人たち」を慰霊するのに、中国や韓国などから批判されることを気兼ねして、それを行わないというのは異常であり、戦後の日本はこの異常を正常としてきたために無気力な様をさらけ出してしまった。


果たしてそうなのだろうか。
もし、私が先の大戦で命を落とした「英霊」だったら、どう思うだろう。
「英霊」の私は、日本の遙か南方で見方の援軍もなく孤立し、餓死寸前まで飢えているというのに、目の前には圧倒的な兵力を持ったアメリカ軍が迫っている。もう絶望的な状況で、私が死ぬことはほぼ間違いない。
そしてアメリカ軍の容赦ない火炎放射器が紅蓮の炎を放ち始めたとき、私は思う。
もちろん「天皇陛下万歳」などではない。
もう一度、白い飯を食いたかった。家族に会いたかった。と、まず思うだろう。
そして私にまだ考える時間とゆとりがあれば、こう思うに違いない。

戦争の名の下にこんなところに送り出し、人間らしい扱いもせずに自分を死に追いやろうとしている帝国陸軍大日本帝国のお偉方をすべて呪ってやる。
よくも非道なことをしてくれたな。

そして私は、その一瞬後、猛烈な勢いの炎に飲まれ悲鳴を上げることもできずに黒焦げとなり「英霊」と化していったのだ。

英霊となった私は、遺骨も拾われぬまま、「国家のために尊い命を捧げた人たち」として靖国神社に祀られたが、なぜかそこには私たち末端の兵隊たちが蛇蝎のごとく嫌っていた東条英機らのA級「クソ野郎」戦犯も一緒に祀られている。
私は、いわばこいつらクソ野郎に殺されたようなものだ。
なぜ、こんな奴らと一緒に祀られなければならないのか。
そして、英霊を慰めるためにと称して、国会議員らが8月15日になると思い出したように参拝しにくるが、こいつらはかつて私たちを戦地に送り出した憎むべき帝国政府の末裔たちではないか。安倍も麻生も参拝には来なかったが、奴らの二代前の政治家は、無謀な戦争遂行に荷担した戦争犯罪人だ。

そんな奴らに参拝されて、どうして「英霊」の魂が慰められるというのか。

私たち「英霊」のなかには、中国や朝鮮から強制的に日本軍のために働かされて命を落とした者もふくまれている。
彼らも血の涙を流して怒っている。
靖国は、言ってしまえば味噌も糞も一緒くたにして放り込み、目に見える部分だけ立派に飾って見せた食わせ者の神社なのだ。

靖国に祀られているクソ野郎どもを参拝することが、どうして国家の精神的な背骨になるというのだ。
私は死んで「英霊」となっても怒っている。

戦争を起こし、何万という人々を無駄死にさせ、国を灰燼に帰するまで破壊した犯罪人が祀られている神社を首相が参拝しないことが異常であり、その異常が正常として続いているなどとは、多くの「英霊」から見れば失笑を買うことだろう。

自民党は歴代総理が靖国参拝をしなかったから崩壊しようとしているのではない。
靖国参拝が国としての毅然とした姿勢を示すことだと勘違いしている極右の婆さんの繰り言に、耳を貸す「英霊」はいないだろう。

私が見る靖国とは、日本が犯した戦争という犯罪の責任を曖昧模糊としたものとして存続させている異常なものに他ならない。

【追記】
今日8月15日、小泉純一郎安倍晋三靖国神社を参拝した。小泉は首相在任中の06年から連続4回、安倍は昨年に続いて2回目となる。
また現職閣僚として野田聖子も参拝。鳩山邦夫総務相も参拝し、記者団に首相が参拝しないことを批判した。

どうしたんだ、頑張れ「自End」村の管理人

最近のニュースを読むと、自公政権が崩壊していくのをスローモーションで見ているようで楽しい(笑)。


とブログ主は書いているが、私から見ると「自End」村が崩壊していくのをスローモーションで見ているようで哀れを催さずにいられない。

8月3日に教祖様の植草一秀が収監されてからというもの、少しは「自End」村もまともになるのかと思っていたが、やはり一度狂った歯車は元には戻りがたいようだ。

ブログというものは誰に頼まれて書くのでもなく、個人の意志の発露として書くものである以上、何を書こうと書くまいとブログ主の自由である。しかし、エントリを上げてなにがしかを訴えるとすれば、おのずとそこに書き手の人間性というか品性が現れる。

たとえば右派ブログならば、8月6日や8月9日には麻生太郎が言った言葉を取り上げて、やはり日本には抑止力としての核が必要だとか、アメリカの核の傘をいつまでも必要としているのはいかがなものかなどと書くものと想像する。
それでこそ右派・保守ブログというものだ。

対して左派ブログならば、この日こそあらためて核廃絶の必要を確認し、悲惨な戦争を二度と起こさないようにしなければならないと訴えるのが、ステレオタイプといわれようと、本来の有りようだと思う。


ところが、長らくリベラル左派を自認し、植草一秀を教祖と仰ぐようになってからも自公政権にピリオドを打て、民主党による政権交代が必要だと訴え続けているカナダ発のブログは違った。
8月6日付のエントリでは、自宅で死亡しているのが確認された大原麗子を偲ぶ記事を書き、ご丁寧にも彼女がかかっていたといわれるギラン・バレー症候群についての解説まで載せている。とはいっても、専門HPにあるものをコピペしただけのもので、原爆の悲惨さを訴えるべき日に、このコピペだらけのエントリはいったい何だろうと思わずにいられない。

さらに翌8月7日のエントリでは、カナダが一日遅れの満月の日だったとかで、(一日遅れというのは、もちろん日本よりということだろう)収監されている植草に応援メッセージを送っている。
といっても自分で書いているのは最初の5行ほどで、残りは植草収監に抗議するメッセージを羅列しているに過ぎない(〆の言葉も5行ほど書いているが)。
なんともお手軽な作りのブログである。
なぜ満月の日に教祖様に応援メッセージを送る必要があるのか、私には今もって皆目謎であるが、そんなことはもうどうでもいい。
要するに、かのブログ主には平和祈念の言葉もなく、あるのは女優の死と満月の祈りしかなかったということである。

8月9日のエントリでは、自民党が党勢を巻き返しているという話題を取り上げている。
そして8月10日になって、ようやくブログ主は「長崎原爆の日に」と題するエントリを上げているが、中身はバカ男の麻生太郎が「傷跡」を「しょうせき」と読み間違えたことをあげつらうことから始まって、麻生批判をならべ、相対する鳩山由紀夫が人間味あふれる男として賛美されている。

おいどうしたんだ、左派ブログの旗振り役は。
ちょっと様子が変じゃないのか。

と思ったら、後半は非核三原則核武装論に関する解説(もちろんコピペたっぷり)があり、最後に「日本から核兵器をなくすためにも、日本の平和を守るためにも、政権交代を実現しよう。」と一言。

あれあれ。
ここでも主役は「平和」ではなく「政権交代」なのだった。

私は思う。
ステレオタイプであろうと構わない。
毎年同じことを繰り返すのでもいい。
日本中が半世紀以上も前の惨禍に思いを馳せ、同じ過ちは二度と繰り返さないと誓う日に、平和を祈らない左派ブログにどれだけの価値があるのだろうか。

何を書くのも勝手。
誰を信じるのも勝手である。誰にも文句を言われる筋合いはない。
その通りだ。
しかし、書くべき時に書くべきことを書かないのは少々恥ずかしいことではないのか。

さらに、このブログ主は8月12日には、ついにかつては蛇蝎のごとく嫌っていたはずの橋下徹を持ち上げるまでになっている。
理由は単純。
橋下徹中田宏らで構成される首長連合が、各党の地方分権政策を採点して、民主党にトップの評価を下したからだ。

橋下氏は、一時民主党地方分権政策を批判していたが、小沢代表代行と会談後、突然、考えを変えたようで、「霞が関の仕組みを根本的に変える、という迫力を感じた」と発言している。小沢代表にうまく説得された様子がうかがえる。

小沢代表代行の演説も政権交代を前にして、日に日に迫力を増している。政権交代が現実になってきた今、小沢代表代行は追い風に乗り、とても頼もしく見える。


まあ、橋下徹のような大衆扇動家以外の何者でもない男を持ち上げるのも勝手といえば勝手なのだけれどね。

でも大丈夫なのか?
ここまで民主党小沢一郎マンセーになっていて。
念願かなって民主党が政権を取ったのはいいけれど、民主党改憲するなど左派からみればとんでもない政策を実施したときに、どうやってこれを批判するつもりなのか。
あるいは橋下徹の人気に寄りかかって、民主党自民党に劣らぬ衆愚政治を行ったときに、ブログ主はどんな言葉でこれを批判するのか。

もう一度繰り返そう。


私には「自End」村が崩壊していくのをスローモーションで見ているようで哀れを催さずにいられない。

田母神俊雄と日本会議の知力のなさが起こした8月6日の愚行

日本は世界で唯一の被爆国として、核廃絶を訴えていく使命を持っている。
まずこのことを確認しておかなければ、いかなる戦争反対アピールも平和運動も嘘っぱちになってしまう。
非人道的な対人地雷には反対だが、戦争抑止のために核を持つのは許されるなどという考えをしていたのでは物笑いの種になるだろう。
非人道的な点において対人地雷も核兵器も変わりはない。地雷は攻撃的な兵器ではないかもしれないが、人間に対してその威力を発揮すれば、悲惨な事態を引き起こすことにおいて攻撃的な兵器と変わりない。
核兵器は一瞬にして数十万人の命を奪い、その後も数十年にわたって人々を苦しめる悪魔の兵器だ。戦争を終わらせるためには必要だったとアメリカ人は今でも言うが、その傲慢な言い分を日本人は未来永劫許してはならないと思う。

ところが、原爆の日の昨日、田母神俊雄日本会議のバカどもは、言うに事欠いて「ヒロシマの平和を疑う」と題する講演会を広島で行った。
田母神からすれば、日本が唯一の被爆国であるが故に「3度目の核攻撃を受けないためにも核武装すべきだ」というのがその主張だという。
なんという本末転倒だろう。
3度目の核攻撃を受けないためには、核武装するのでなく、核兵器をこの世からなくすのでなければならないはずだ。

核攻撃を抑止するために核を持つということは、田母神がどう言ったか知らないが、とりもなおさず日本が再び軍備を整えることを意味する。
そして軍備を整えるということは、すなわち核兵器以外の軍備も増強され、それを維持するための軍部も補強されることになるだろう。
国民には徴兵制度が敷かれ、最新兵器を持つために軍部の発言力が増して、言論統制も行われるようになるかもしれない。
つまりは戦前の日本に逆戻りするということだ。

昨日の講演会の主催者となった日本会議広島の中尾健三理事長は、
「わたし自身も被爆者。祈りの日であることは違いないが、この日に(講演会を)やることに意義はあるのではないかと考える」
などともっともらしいことを言っている。
しかし、原爆がもたらした悲惨さを思い起こし、国民の多くが沈痛な思いにひたる日に、日本も核を持つべきだとぶち上げることにどれだけの意味があるというのか。

昨日の毎日新聞には原爆の被害にあった広島を目の当たりにした脚本家、早坂暁のインタビューが載っていた。

最初に気づいたのは、ものすごい異臭でした。吐く者もいたほどです。広島の死臭だと気づきました。広島駅に着いたのは夜でした。裸のプラットホームが3本残っているだけで、駅舎も吹っ飛んでいました。

雨の中で目を凝らすと、青白い燐(りん)がボッボッ、ボッボッと燃えているのです。まだ収容できていない死体から出ている燐光、俗に言う火の玉だとわかりました。腰が落ちるほどびっくりしました。何千、何万もの死体から燐光が燃えているのですからね。みんな黙って見ているけれど、みんなひざが震えていた。地球が消滅するときの光景ではないかと思いましたね。

核兵器の威力がどんなものか、現代の日本人には写真や映像、書物などから知るほか術がないが、実体験した人の言葉にはやはり力がある。早坂の「最初に気づいたのはものすごい異臭」だったというのは、実にリアルで説得力がある。

毎日新聞は、今日の夕刊でも美輪明宏にインタビューしていて、原爆を投下された長崎の様子が語られている。

「とにかく臭い。死体のような塊がいたる所に転がっている。親子の遺体は必ず子供がおなかの下に。抱きかかえるように覆いかぶさって、自分は焼け焦げても子供は助けたいと思ったのでしょう」

焼けただれた人間や手足を吹き飛ばされた人間、そこらじゅうに遺体が転がっている様子をわれわれは「知っている」が、その現場には吐き気を催すような死臭があふれていたのだ。もはや、現代人には想像することしかできないが、このような地獄絵図を再び地球のどこかに甦らせることだけは避けなければならないことは誰にでも分かろうというものだ。
そして、地獄絵図を再現させないためのいちばんの方法は、核兵器をなくす以外にないことも容易に分かる。

田母神俊雄日本会議(いうまでもなく、この組織には麻生太郎安倍晋三中川昭一などの極右政治家が深く関与している)が考えていることは、日本を戦前のように逆戻りさせ、しかも核の威力を持って対外関係を築いていくということだ。
こんなことを許しておいていいものか。
毎日夕刊の記事で美輪はこう続けている。

「日本は石油も鉄もニッケルもない。もともと戦争できない国なのに、根性、根性、根性――。根性なんて何の役にも立ちません。軍部は知力がなく、非科学的。日本人は野蛮人だった。その愚かさの結果が原爆ですよ」

美輪はまた、憲法9条を変えようとしている現在の政治家たちに戦前の知力なき世代の名残を見ているが、田母神と日本会議のバカどもは、その知力なき者の最たる存在と言えるだろう。
8月6日という、日本にとっては忘れがたい特別な日に、「ヒロシマの平和を疑う」などとくだらない講釈を垂れ、核武装論をぶつ田母神たちに対しては最大級の不快感を日本国民の一人としてここに表しておきたい。

芸能人が麻薬取締法で逮捕された日にひっそり収監されたU草氏

すでに収監が決まっていたのだから、大したニュースではなかったには違いない。
8月3日、女子高生に対する痴漢で懲役4月の実刑が確定していた植草一秀氏が、とうとう収監された。すでに未決勾留期間が60日あるので半分は消化しているものの、氏が「維新以来の民衆による無血革命」と位置づけていた衆院総選挙の投票日には、残念ながらご本人が刑務所の住人となったために投票資格さえないという皮肉な状況となってしまった。

ネット界ではランキング1位を誇り、数多くの熱狂的(狂信的?)信者を持つ同氏だが、リアルの世界では教祖様が収監されたニュースなどよりも押尾学覚醒剤取締法違反の現行犯で逮捕された事件の方が圧倒的に大きく報じられていた。
まあ、植草の信者でもなければ押尾ファンでもなく、芸能界にもさして興味のない私にとってはどちらのニュースもそれほど重要な意味を持つものではない。

とはいえ、かつてブログで教祖様を批判したことがある手前、植草氏を失った(しばらくの間だけどね)信者たちがどのような反応を起こすのかには少々興味を持った。

植草信者には面白いことに左派系ブログも右派系ブログも同居する形で「悪徳ペンタゴン」批判を繰り広げてきたわけだが、まず左派系ブログでは「晴天とら日和」が8月4日付のエントリで「初の裁判員制度裁判が始まるその日に、植草さんが東京高検に収監される。(選挙期間中で、裁判員制度で盛り上がってる時にコソッと収監してしまえ、って意図が見えすぎるやないか!)」とぶち上げている。
裁判員制度と植草収監とは何の因果もないと思うのだが、陰謀論が大好きな信者にとってはこれも「悪徳ペンタゴン」が裏で糸を引いているかのように見えるのだろう。
お気の毒に。

さらに「カナダde日本語」も、やはり8月4日付エントリ「植草さんが収監された日」というエントリを上げている。
「昨日、8月3日午後1時30分に,植草さんは東京高等検察庁に呼び出しを受け,収監されてしまった。」という書き出しは、いかにも大切な人を失ってしまった気持ちがあふれている。信者としてはしばらくのことではあっても、教祖様の言葉に触れられなくなるのは、この上なく寂しいことなのだろう。
現在、植草氏の「知られざる真実」は過去のエントリを抜粋して紹介しているようだが、

政権交代を心より願って必死で書き続けた植草さんの文章の中には、植草さんの魂が宿っている。植草さんの文章はとても読みやすいけれども、内容はとても深い。何度も読み返すたびに、最初は理解できなかった意味が理解できるようになったり、もっと深い意味があったことが発見できる。


まるで聖書のように読み返しては、ひとつひとつの言葉を反芻しているようである。そしてこちらもぶちあげてみせる。

政治ブログランキングの順位も2位に大きな差をつけてのぶっちぎりの1位となっている。植草さんが収監されている間も、このままみんなで植草さんのブログのランキングの応援を毎日し続けようではないか。


ランキングにも興味のない私にはどうでもいいことだが、本人が更新していないブログに対して投票し、上位を維持しようと工作するのはルール違反というものではないのか?
信者としては、教祖様がムショから出てきたときも、「知られざる真実」がランキング1位ですよと言ってやることが何にもまさる出所祝いになると考えたいところなのだろう。

そしてもうひとつは陰謀論の革新的信者である、Oh Henryことヘンリー・オーツ氏の「BLOG版ヘンリー・オーツの独り言」だ。
こちらは8月3日付のエントリで「植草一秀さん収監に断固抗議する!」と怒りの声を上げている。

今日は初めての裁判員制度による裁判が開かれる日で東京地裁前では反対派がビラを配っていた。植草事件の理不尽を考えると思わず歯ぎしりをしそうになる。テレビ情報に浸かっている人にとっては「ミラーマン」の事件としか認識されていないのだろう。


Henry氏も裁判員制度による裁判と教祖様収監を関連づけようとしているが、読んでみるとなんか変だぞ。「今日は」から始まる最初のセンテンスと「植草事件の理不尽を考えると」のセンテンスには何の脈絡もないのではないか?
さらにつながる「テレビ情報に浸かっている人にとっては」の文章も、きわめてつながりが悪い。
つまり、裁判員制度による裁判と植草収監とは何も関係がないことを、この一連の文章は図らずも白状しているようなものである。
Henry氏は真実を伝えるのはネット情報だけだとして、面会人に手紙を渡すなどして刑務所内からも情報を発信してほしいと訴えている。
まあ、それくらいは弁護士にやる気さえあれば可能なのではないかと思うのだが、どうだろう。

Henry氏はまた、「暗殺者は誰だ」という動画も紹介している。

おいおい、こんどは悪徳ゾンビかよ。
動画を見ると、中身は毎度おなじみの小泉・竹中ら「悪徳ペンタゴン」にとって都合が悪い人々が消されていったという事件を羅列したもので、気の毒に命を落としてしまった人々に並んで痴漢事件で逮捕された植草氏が登場し、「悪徳ゾンビ」がもっとも恐れている人物として紹介されている。

はあ〜。よくやるもんだわ。

しかし、多くの人が命を落としている中で、「もっとも恐れている」植草一秀氏だけが、どうしてもっともセコくてみっともない痴漢などで捕まったのだろうか。私にとっては不思議なだけである。

とまあ左派ブログと呼ばれるものを見てみたのだが、もうお腹がいっぱいである。右派ブログの「神州の泉」ものぞいてみたが、内容は不思議なほど左派ブログと同じである。

植草教において、政治的な左派も右派も関係はなく、ただひたすら植草氏は真実を知っている(述べている)と繰り返すのが教義となっているようだ。
でもさ、客観的に見たら植草教というのはただの混沌の塊としか思えないのだけどな。
今度の衆院選政権交代が実現したとして、その政権が左派あるいは右派にとって都合の悪い政策をとったとき、植草教の信者たちはどうするのだろうか。
いや、その前に教祖の植草氏自身がどのように発言をドライブさせていくのか、少々見物ではあると思う。