「聖教新聞」の鬱陶しさにはへきえきするのだ

実を言うと、わが家には先月から3ヶ月間の約束であの「聖教新聞」が配達されている。

私や家族が創価学会の会員だからではない。

親戚に学会員がいて、ある晩電話がかかってきて、
「お願いがあるんだけど、3ヶ月でいいから新聞をとってくれない?」
ときたわけだ。

学会員には新聞の購読者数を増やすとか、折伏のノルマがあるのかもしれないが、親戚に学会員がいる家庭は多かれ少なかれ、こういう「頼み事」をされているのではないだろうか。
そして、我が思想・信条よりも親戚との親交を優先する我が家(というか、カミサンなんですけどね)は、「新聞をとるだけなら」とOKを出したというわけだ。

もちろん、私は「聖教新聞」など見るのも嫌だ。
カミサンも「なんかスゴイわね、これ」と言いつつも、ラテ欄だけ見ている様子。

しかし、そのままゴミにしてしまうのももったいないので、私はこの新聞を我が家で飼っている小鳥たちのケージの底に敷くことにした。
まあ、糞取り紙ですな。

でも、そうやって利用するだけにしても自然に紙面に踊る文字は目に入ってくる。
で、その文字がまた鬱陶しいことこの上ないのだ。

学会の新聞だから、毎日のように1面には池田名誉会長が出ていて、絶賛の嵐なのは分かる。しかしその見出しが、いちいち「新しき正義の太陽」だとか「勝利は我が手にある」みたいな感じで大袈裟。
そこまで持ち上げんでもいいだろうに。

それから、週に何度かは池田名誉会長がどこそこの名誉市民になったとか、名誉教授になったとかという報告。
これもかなりうんざりするなあ。

池田大作って、もしかしたら金正日よりも勲章の数では勝っているんじゃないだろうか。

あと目につくのは、「勝利する」って言葉。
勝利って、何に勝つのよ。敵は誰? 何?
学会員以外はおそらく地獄に堕ちる亡者たちと思ってるのだろうから、つまるところ彼らが勝利したり打ち負かしたりしているものっていうのは、非学会員である私たちとか学会の外の世界のことなのだろうか。

何だかしょうがねえなあ。
そう思いながらも、私は考えるのだ。
もし、学会員以外は地獄に堕ちると(口には出さないまでも)信じているのなら、「3ヶ月でいいから新聞とってくれない?」とか、選挙が近づくたびに普段つきあってもいない友人に対して「○○さんをよろしく」なんて頼んでくるなよ。

地獄に堕ちる人間どもの協力を受けながら選挙で勝ったりすると、「聖教新聞」はまた大得意になって「大勝利」だとか「正義は勝った」だとか書き立てるわけだろう。

そんなことを思いつつ、私は紙面に池田大作の写真が載っているのを見ると必ずその面を上にしてケージの底に敷き、小鳥たちに言ってやるのだ。
「大作の野郎に、いっぱい糞を食わせてやれよ」
ってね。